2012年5月31日木曜日

「函館市史」通説編4 6編2章5節2-1


聞き取りによる住生活の変遷   P501−P517

 都市構造に関しても聞き取りは有効であるが、それぞれの住宅内でおこなわれていた生活の変遷過程は、聞き取りという方法によって初めて明らかにできるといってよい。とくにここで取り上げる高度経済成長期は、函館市民の大多数が身近な現実として経験し、そのなかで生活をつくり上げてきた過程そのものである。したがって、それぞれに思い入れもあり、歴史事実としては客観的に述べにくいこともあるはずであるが、できる限り多くの方の話をうかがい、その内容をまとめて分析した結果をここでは述べる。
 なおこの聞き取り調査は、平成2(1990)年から平成5年にかけて、『函館市史』都市・住文化編のための調査に際しておこなわれた聞き取り記録を基礎データとして、あらためて平成10年8月と11年8月・10月に集中的に おこなった。調査対象は522頁の一覧表(→住文化における高度経済成長期の意味)に示した36軒・40人で、西部地区、中央部地区、東部地区、そして郊外(一部市外域を含む)という区分を考慮しつつ全市域に及ぶようにしたが、実際にはある程度の偏りはある。
 今回聞き取り項目として用いたのは日常生活に関する以下のようなものである。

●住所、名前、年齢などの基本的な事項。いつ頃から函館に住んでいますか。住宅の建築年代は。家族の人数は。住宅周辺の変化は。 
●テレビはいつ入りましたか、どのようにしてみましたか。 
●どこでどのように食事をしましたか。テーブル・卓袱台(ちゃぶだい)は使っていましたか。 
●電気洗濯機、電気冷蔵庫はいつから使っていますか。その前はどうしていましたか。
●水道・ガスはいつから使っていますか。 
●ご飯はどのようにして炊きましたか。
●電話はいつから入りましたか。
●どこで寝ましたか。蚊帳(かや)は使っていましたか。 
●暖房設備としてはどのようなものを使いましたか。
●交通機関としては何を使いましたか。
●買い物はどこに行きましたか。

 これらの項目は基礎的なものであくまで手がかりなのであり、聞き取りそのものはその過程で話題が思いもよらぬ方向に発展することが普通であり、その多彩な内容のすべてをまとめきれるものではなかった。ここでは基本的な聞き取り項目に対する答えから函館市民の住文化の大枠を述べてみたい。
 まず、典型的と見られる聞き取り記録の例を地区別にあげておきたい。

■西部地区
Aさん(男性・昭和2年生まれ)
職業 函館ドック勤め 先代は雑貨屋 沖売りをしていた。
住所 函館市弁天町
 函館生まれの函館育ち。両親も函館生まれ。現在の家は昭和44(1969)年に建て替えられたもので、子ども部屋もこの時2部屋造った。建て替え前は先代が雑貨屋をやっていたため1階前面が店になっていた。昭和34年結婚当時は3人家族。その後子どもが2人(昭和36・昭和38年)生まれ、昭和44年建て替えた時は5人。現在は夫婦2人暮らし。


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テレビ 昭和34年の皇太子御成婚の時は自宅にテレビがなかったので、友達の家で見た。その後昭和34年のうちには購入したと思う。テレビは茶の間に置いてあり、食事をしながら見ていた。昭和39年の東京オリンピックはまだモノクロテレビで見ていた。昭和44年建替えのときはカラーテレビだった。
テーブル テーブルと呼んでいた。丸い折りたたみ式のもので、5人で食事するには十分な大きさがあった。
電気洗濯機 昭和34年結婚当時はまだなかった。子どもが生まれてしばらくしてから購入した。
電気冷蔵庫 電気洗濯機より購入が遅く、昭和44年建て替えのときに購入したと思う。
水道 家の前に共同水道があり、そこで母親などが「井戸端会議」といった感じで近所の人達と話していたのを覚えている。昭和34年結� �したときには水道が引かれていた。
ご飯の炊き方 以前は石油コンロを使ってご飯を炊いていた。昭和44年建て替えの時からガス釜を使いはじめ、現在もガスを使用している。
電話 向かいの家で呼び出しをしてもらっていた。自分がかけるときは公衆電話を利用していた。自宅に電話がついたのは結構遅く、昭和46年頃ではないかと思う。建て替えた当時はまだなかった。
蚊帳 建て替え前は使っていたが、その後は使っていない。
暖房 
幼い頃……薪ストーブ(ストーブの上を利用して調理などもしていたし、湯沸し器がついているものもあった。薪を置く所がなく買い換えた。)
昭和40年頃……石炭ストーブ(煙突の掃除は2週間に1度ぐらいやっていたが、それほど大変ではなかった。) 
昭和44年……石油ストーブ
交通機関 自家用車は持ったことはない。移動は市電かバスを利用していた。
買い物 電車通りまで出れば何でもそろうし、配達してくれる店もある。お遣い物などは市電でデパートまで出かけて買う。

■中央部地区1
Bさん(女性・大正4年生まれ) 
職業 海産物問屋
住所 函館市豊川町
 初代が新潟県潟町(現大潟町潟町)から明治20年頃にこの地にやって来て、海産物問屋をはじめる。亡くなったご主人が3代目にあたる。昭和9年の函館大火により以前の家屋が全焼。その後現在の住宅が建てられた。昭和9年3月4日に結婚し、21日に大火に遭う。大火後はしばらく時任町の別荘で暮しており、昭和9年12月に入居した。入居後増築・改築はおこなっていない。女中部屋はあったが、子ども部屋は設けていなかった。昭和9年入居当時は初代・2代目・3代目の各夫婦、3代目の兄弟6人、使用人3人の15人で暮していたが、現在は3代目も亡くなり一人暮し。
 近所はびっしりと海産物問屋が並んでいたが、現在も商売を続けている� �はごくわずかになってしまった。
テレビ 函館ではまだ珍しい頃だったと思う。昭和34年の御成婚パレードは近所の人と一緒に見た。この御成婚に合わせて購入したと思う。テレビは茶の間に置いてあり、食事の場とは別になっていた。カラーテレビは昭和39年のオリンピックに合わせて購入した。
テーブル 卓袱台と呼んでいたが、丸型で真ん中は鍋などが置ける様に特注で作ったもので、折りたたみ式の物を使用。食事は何番膳にも分けて取っており、自分は3番膳であった。
洗濯機 テレビと同じ頃(昭和33、4年)に購入したと思う。


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冷蔵庫 明治に初代が商売を始めた頃に氷の冷蔵庫を購入した。この冷蔵庫は毎朝氷屋さんが配達してくれる氷を冷蔵庫の上段に入れて冷やすというもので、日中氷が溶けてなくなってしまった時は、誰かが氷屋さんにまた氷を買いに行っていた。氷の冷蔵庫は結構冷えて使いやすかったため、電気冷蔵庫になったのは周辺の家より遅かった。いつ頃かは不明だが現在の冷蔵庫(昭和56年購入)が3台目の電気冷蔵庫。
水道・ガス 昭和9年入居当時にはもう通っていた。
ご飯の炊き方 炭を使い、金物の釜で炊いていた。炭をおこすと発生するガス(一酸化炭素)で朝起きた時頭がボーっとした覚えがある。ご飯は朝・夕2回炊いていた。炭から電気釜になったのはいつ頃かは不明。使用人がいたため自身が家事をあまりやらなかった� ��ら覚えていない。
電話 商売上なくてはならないものだったので、かなり前からあった。多分初代が商売を始めた明治20年にはあったと思う。ご近所も同業者が多いので、みんな個人で持っており、貸したり借りたりしたことはなかった。
蚊帳 昭和40年頃まで使用していたと思う。その後は蚊取り線香を使っていた。
暖房
茶の間……昭和9年炉(囲炉裏)→昭和25年頃石油ストーブ
ダイドコロ……昭和9年なし→薪ストーブ→昭和20年頃石炭ストーブ(貯炭式)
 戦後茶の間が石油ストーブになったためダイドコロでストーブは使わなくなった。
ミセ……石炭ストーブ→昭和25年頃石油ストーブ
交通機関 自家用車は持ったことがなかった。
買い物 日常は近くの廉売やコープ(生協)に行く。お遣い物は丸� �・西武などのデパートにタクシーで買いに行く。

■中央部地区2
Cさん(女性・昭和3年生まれ)
職業 電気屋
住所 函館市栄町
 函館生まれで、昭和28年結婚後この長屋に住む。結婚前は大沼に住んでいた。建物は昭和9年の函館大火後すぐの建築らしい。平成になってから地主が破産したため、持ち家となる。家の増築・改築は何度かおこなっている。まず、昭和29年台風15号により屋根が吹き飛び、そのときに屋根の修理をおこなう。ついでに家の前面を店舗に改装した。その後、昭和42年頃に厨子2階を設け、そこを子ども部屋とした。平成6年にご主人が亡くなったため、電気屋を閉め、店部分を居室部分に戻す改築をおこなった。家族数は夫婦と子ども2人(昭和25年と昭和30年生まれ)の4人だった。
テレビ 昭和34年の 御成婚の頃ではないか。電気屋だったのでそれなりに早かった方だと思う。テレビは茶の間にあり、食事をしながら見ていた。


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テーブル テーブルと呼んでいた。四角い折りたたみ式のものでプラスチック製のものを使用。
電気洗濯機・電気冷蔵庫  テレビと同じ頃ではないか。
水道 昭和28年入居当時は共同水道で、家では甕(かめ)にためて使用していた。昭和30年頃に個人で水道を引いた。
ガス 入居当時はガスがなく、調理などには灯油のコンロを使用していた。その後プロパンガスを使用し、昭和36年頃都市ガスを引いた。
ご飯の炊き方 石油コンロ→プロパンガスで鍋で炊いていた→昭和34年頃電気釜に変化
電話 昭和28年入居当時は電話はなかった。向かいに雑貨屋さんがあり、そこで借りたり呼び出しなどもしてもらった。昭和30年頃仕事で使うため自宅に設けた。
蚊帳 子供が小学生の頃まで使用していた(昭和40年頃まで)。
暖房 石炭ストーブ→昭和40年頃……石油ストーブ
交通機関 昭和29年の店舗改装と同時期に自家用車を持った(軽自動車)。電気屋という商売上必要だった。平成6年にご主人が亡くなるまで持っていた。その当時近所で持っている家はなかった。向かいの雑貨屋も電話はあったが 車は持っていなかった。
買い物 以前は日常品は近所で買えたが、現在は宝来町まで20分から30分歩いて買いに行く。バスなどが通っていないため、大変不便になった。

■東部地区1
Dさん(女性・大正9年生まれ)
職業 呉服屋 
住所 函館市新川町
 父親は建設業。東京生まれ、函館で女学校入学、昭和18年結婚。函館で代々主人の姉が呉服問屋、丁稚奉公から独立した。店を出すのではなく2階が倉庫で、販売担当者が20人いた。函館では呉服屋が成り立たない。
 家は大火の翌年の昭和10年に建てたものを昭和25年購入。昭和36年建て増して暖房をオンドルにした。店を表通りに建てたのは昭和46年。
テレビ 御成婚パレードは自宅のテレビで見たので、その1、2年前には買っていた。店の若い人に見せなければいけなかった。仏間に置き食事をしながら見た。
テーブル 函館ではテーブルが座卓、本州では卓袱台という。四角いのを2つ使った。使用人とも同じ。ただし主人だけは別だった。机といえば昭和36年にはオンドルで椅子で食事するようになった(東京では使用� �は箱膳、家族は卓袱台、昭和はじめまでそのような光景を見た)。
電気洗濯機 親戚に電気屋がいたので出るとすぐ買った。
電気冷蔵庫 昭和36年頃、それ以前は毎日買い物をしていた。
水道・ガス 昭和25年頃からあった。
暖房 薪と石炭を使った。薪ストーブで煮炊きもできた。薪を割るのが大変で、人に頼むのも大変。電気鋸でひいていた。昭和36年頃に石油ストーブが入った時は煙突がなくなって楽になった。
 昭和36年に裏を増築した時に本格的なオンドルにした。部屋も暖まるしお湯も沸く、夏は鉄板で遮断できるので風呂のお湯のみが沸くので好評であった。この時に石油ストーブに変えている。石炭から石油に変えて本当に掃除が楽になった。石炭ストーブの煙突掃除は大変であった。タールがでて、燃や しているときに流れたりする。
ご飯の炊き方 ガス台の上に鉄の輪つば釜を乗せて炊く。お櫃に移した。電気釜を買ったときは便利だった。
電話 営業用、早い。
蚊帳 池があったから蚊が多いので使っていた。30年前にやめて蚊取り線香に変えた。
交通機関 昭和34年には営業用の自家用車があった。
買い物 日常的にはスーパーマーケットですむ。非日常的にはタクシーで湯川に行って買い物をしたり、東京や京都でも買い物する。十字街では真壁、寺井などの商店、丸井デパートなどで買い物をした。十字街の裏には古道具屋があった。

■東部地区2
Eさん(女性・大正13年生まれ)
職業 ご主人は公務員だった。昭和50年に亡くなった。
住所 函館市松川町 市営松川団地


 昭和21年12月、22歳の時(数えで23歳)に結婚、弁天のイカ釣り漁業者の家を借りていた。昭和26年に団地ができた時に入った。仏壇は嫁に来たときに札苅(現木古内町字札苅)から運んできた。最初に松川団地に入った人は、学校の先生、消防・警察、市役所の人たちなどで、当時の高給取りでなければ入れなかった。
 作りつけの2段ベッドがあり、下の床がコンクリートであったので、子どもがよく怪我をして危ないので畳を敷いた。板敷きに改造したのは最近で、市では直してくれない。洗濯台は直してくれた。なお2段ベッドは大きさからみて子ども用ではなく、大人が使うように考えてあったと思われる。
テレビ 昭和34年にはあったので、その年か直前に入れた。周りの子どもがよく見にきた、とくに夕方のマンガを見ていた。食事をしながら見ることはしない。
テーブル 折りたたみの丸いものを使っていた。5人以上いた時も使っていた。机は昭和28年生まれの子どもが、中学校の時に椅子と机を買って2段ベッドを直してその位置に入れた。
電気洗濯機 昭和26年入居時にはあった。
電気冷蔵庫 なかったが、2階の人が持っていたので必要な時はよく使わせてもらった。
暖房 昭和26年入居当時は薪ストーブで、薪は1階だったので窓の下に積んでいた。盗まれたことがある(階段においていた漬け物桶も盗まれたことがある)。石炭入れ用の物置では足りないのでベッドの下の畳をはいで1年分の2トンを入れた。石炭の方� ��暖かいと感じた。集合煙突であったが、部屋の中は掃除が必要であった。昭和39年には石油になっていた。 
ご飯の炊き方 七輪炭と文化鍋を使って、外の階段で炊くこともあった。プロパンガスが都市ガスになった。電気釜はつかわない。
電話 昭和29年にはなかった。あった家もあった。
蚊帳 最初はつっていた。5、6年間はつっていた。

■東部地区3
Fさん(女性・昭和5年生まれ)
職業 菓子問屋
住所 函館市杉並町
 駅前の若松町で生まれた。昭和12年に万代町に移る。すでに都市ガスがあった。その後本町を経てここ杉並町に。昭和30年に結婚して万代町に住み、昭和34年の秋からまたここに住んでいる。家族は多い時で10人、店の人が3人で13人、晩ご飯は20人くらいいたので忙しかった。子ども部屋は昭 和41、2年頃に物置を改造して増築した。
テレビ 昭和34年4月10日の御成婚パレードは万代町のテレビで見た。
テーブル 丸い折りたたみ式のものを使った。木のものと津軽塗のものがあり、同時に10人は食べていた。
電気洗濯機・電気冷蔵庫 電気洗濯機も冷蔵庫も結婚当時すでにあった。当時嫁入道具の三種の神器が洗濯機、編物機、自転車であったが、洗濯機はあるからいいといわれた。その洗濯機は丸い撹拌式のもので昭和28年頃から使っていたという。
水道・ガス 水道・都市ガスはきていた。
ご飯の炊き方 万代町ではへっつい(竈、かまど)に薪、つば釜で炊いた。長火鉢に炭で鉄瓶で湯を沸かしていた。戦前はへっついのついた家が多く、へっついで炊いていた。
電話 商売をしていたので戦前からあっ� ��。
蚊帳 蚊帳は嫁入り道具に入っていた。水色と白であった。
暖房 薪ストーブを使っていた。薪1シキ(「シキ」については、520頁参照)、薪屋さんが専門店であって、生木で持ってくる。薪切り屋さんに頼む。電動鋸で切る音は風物詩だった。薪1シキ、2尺長さの薪を幅6尺高さ5尺に積む。一冬1シキでは足りない3シキ必要だった。
 薪が高くなってきたので薪ストーブから石炭ストーブに変わった。石炭小屋が必要で一冬に風呂にも使ったので2トンは使った。
 石炭ストーブはルンペンストーブ(半日しかもたなかった、なかの石炭が燃え尽きると事前に石炭を詰めて用意しておいたもう1台と交換する方式)、貯炭式(フクロク貯炭式)、投げ込み式(だるまストーブ)といろいろ使った。石炭ストーブでは煙突掃除が 週1回、梯子をかけて1人でやっていた。
石油ストーブは昭和41、2年頃子ども部屋にポット式を使ったのが最初。他の部屋もすぐに使い始めた。昭和43年5月の十勝沖地震の時にはすでに石油ストーブに変わっていた。石油は18リットル5缶使っていた、今はホームタンクになった。
交通機関 戦前から三輪自動車を使っていた。



■郊外1
Gさん(男性・昭和9年生まれ)
職業 日本通運 昭和41年9月に市営住宅2種平屋(平成10年の法改正で現在は種別廃止)に最初に入居、以来管理人をしている。
住所 函館市日吉町
 北見を出て、昭和30年に函館にきた。新川町に5年間、千歳町に少しいた。間借りで2000円、宇賀浦町でかまどを持った(所帯を持った、結婚した)。間借りしていて船見町に移った。3か月くらいいて、また宇賀浦町へ、1軒家で家賃7000円だった。そこから日吉町まで自転車で40分かかった。1間の生活で7畳半の長い部屋だった。大家さんが日通で、馬が10頭以上いた。
 この市営住宅は、間口3間半 奥行き3間。昭和41年9月から入っていて、家賃は最高で1万2800円、今(法改正後)は下がっ て4500円。風呂が無いのが不便。物置があったが石炭庫はない。4人家族だったので、子ども用に6畳間に2段ベッドを入れた。周りに何もなかった。カエルが鳴いて大変だった。道路が舗装されてから5、6年。
テレビ 日通に本採用になった昭和38年頃に買った。
テーブル 丸い折りたたみ式を使っていた。
水道・ガス 水は甕に入れていた。なお水洗の管は入ったが、まだ水洗にはなっていない。
暖房 昭和41年に石炭ストーブ。今でも薪ストーブを使っている人がいる。ばんだい号事件の時(昭和46年)は石油ポット式であった。
ご飯の炊き方 炭を七輪でおこした。丸形の小さな石油ストーブも使った。その後プロパンガスが各家に入った。文化鍋で炊いた。その後電気炊飯器に。
電話 隣の卵屋さんが呼び出してく� ��た。
蚊帳 当時の蚊帳はグリーンだった。使っていなかった。
交通機関 自転車で通っていた。バスは本数が少なかった。
買い物 今は車があるからいい。

■郊外2
Hさん(女性・昭和5年生まれ)
職業 専業農家
住所 函館市神山
 7代前の人が長崎から来た。奥さんは市内美原の出身。昭和26年に結婚してこの家にきた。以前の家は萱葺き屋根で、日当たりが悪いなどの理由から昭和31年に改築した。その際子ども部屋を1階にひとつ作った。その後、別棟になっていたトイレと風呂を主屋に増築した。昭和35年にダイドコロを「キッチン」に改築する。 
 昭和26年結婚当時は夫婦、姑夫婦、祖母(昭和27年亡くなる)、兄弟3人、奉公人2人の10人家族。その後5人の娘(昭和27・昭和29・昭和30・昭和33・昭和35年)が生まれる。昭和62年にご主人が亡くなり、平成3年に舅が亡くなってからは1人暮らし。
テレビ 昭和34年の御成婚よりも前から持っていた。テレビは居間に置いて� ��り、食事の部屋とは別になっていた。その後子ども部屋にも1台置くようになった(いつ頃かは不明)。
テーブル テーブルと呼んでいた。四角いもので折りたたみ式ではなかった。家族全員で使える大きなものだった。食事はダイドコロでとり、板の間に畳を敷いていた。朝は2回ぐらいに分けて食べ、晩は全員で食事していた。
電気洗濯機 昭和32年頃、テレビより早かった。お風呂場に置いてあった。
電気冷蔵庫 洗濯機と同じ頃。


水道 昭和26年結婚当時は井戸にハネツルベをつけ汲み上げていた。昭和27年に手押しポンプだった。昭和35年井戸からモーターで汲み上げていた。平成11年(調査日の3日前)に水道を引く。水洗トイレになった。
ガス 昭和35年のキッチン改造時に通る。
ご飯の炊き方 2つ口のへっついで炊いていた。昭和35年にへっついを壊してキッチンに改造。この時ガスコンロがつき、電気釜を使用するようになる。ご飯は朝炊きお櫃(ひつ)に入れて保存していた。冬はこのお櫃に藁(わら)を巻き保温につとめた。
電話 昭和26年結婚当時からあった。
蚊帳 昭和35年くらいまで各部屋で使用していた。その後は蚊取り線香。
暖房 おがくずストーブから薪ストーブ、昭和45年頃から石油ストーブ。ストーブは居間の中央に置いて� ��った。
交通機関 自家用車は昭和27年に三輪のトラックを所有していた。その後昭和38年に免許を取ってから主人が亡くなるまで2台所有。現在も1台所有している。
買い物 日常は昔は中島町や朝市(現在の日本銀行函館支店・NTT東日本函館支店の場所)に買いに行っていた。現在は近くに大型スーパーがあり、そこに買いに行く。お遣い物などは丸井・西武などのデパートに買いに行く。

■郊外3
Iさん(男性・大正7年生まれ)
職業 漁師
住所 函館市志海苔町
 先祖代々この志海苔町。当主もここで生まれ育つ。本家も志海苔町ですぐ近く。現在の住宅は平成7年に新築されたもので、それ以前の住宅は昭和28年に建てられたものだった。息子さんが昭和47年結婚した時に一部増築した。その時はとくに子ども部 屋などは設けなかった。
 結婚前は4人家族。昭和17年結婚後、4人の子ども(昭和18・昭和21・昭和24・昭和29年)が生まれ、昭和47年は3世代の夫婦同居で6人家族だった。現在は孫を含め7人家族。
テレビ 昭和34年御成婚前から持っており、近所では早い方だった。よく近所の人が見に来ていた。テレビは茶の間に置いてあり、食事をしながら見ていた。
テーブル テーブルと呼んでいた。四角いものと丸いもの両方を使用しており、共に折りたたみ式であった。食事は家族全員でとっていた。
電気洗濯機・電気冷蔵庫 共に昭和44年頃から使い始めたと思う。
水道 井戸などなかったため、近くの川(家から50メートルぐらい)に毎日汲みに行っていた。朝・夕2回、2、3往復していた。昭和40年頃水道が通る。水道が通るまで風呂は3日に1回ぐらいしか入れなかった。
ガス 昭和40年頃、プロパンガスを使い始める。ここは都市ガスがないため現在もプロパンガスである。
ご飯の炊き方 つば釜を用い、薪で炊いていた。朝炊いてお櫃に移していた。冬、昼など保存していたご飯を食べるときは、フカシ釜で温めてから食べていた。戦後は七厘を用い、炭で火をおこし調理に利用していた。昭和28年に建替えられる前の家では炉辺があり、そこで魚など焼いて食べていた。
電話 消防団に所属していたので、優先的に取りつけてもらえた。函館市と合併する前の事で、近所の人が借りに� ��るということはなかった。
蚊帳 昭和21年頃まで使っていた。
暖房 昭和28年は薪ストーブで子どもが小さい頃は石炭ストーブ(投げ込み式)。昭和40年頃に石油ストーブに。
昭和28年に建替えする前は炉があったが、そこをつぶしてストーブを置いた。薪ストーブは薪割りが大変だったし、石炭ストーブは煙突掃除が大変で嫌いだった。
交通機関 自家用車は持ったことがなかった。街に出かけるときはバスを利用していた。
買い物 日常は近所の店で買っており、街まで出ることはなかった。お遣い物などはバスに乗って街(松風町)まで買いにいっていた。昭和20年頃長男を背負ってバスに乗って買い物にいった覚えがある。



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